毎日20万人が読んでいるビジネスコラム 平成進化論

日本最大級・毎日20万人が読んでいるビジネスメルマガ
「平成進化論」のバックナンバーをご紹介しています。

メールマガジン「見本」はこちら

6329号 勉強は得意だけどスポーツや人付き合いが苦手なタイプの人


■本日、こんな

 「ツイッターまとめ」

 を目にしました。


 【勉強は得意だけどスポーツや
  人付き合いが苦手なタイプの人は

 「意識ですべてを制御しようとしすぎ」
  てるのかも】

 https://togetter.com/li/1649072


 ということです。



■詳しくは上記リンクを
 辿ってもらえればと思いますが、

 以下に一部を抜粋引用
 (一部、筆者にて改行)。


 -----------------------


 学校の勉強はまあまあ得意
 (あるいはものすごく得意)だが、

 スポーツが苦手、人付き合いも苦手、
 というタイプの人が結構いる。


 マジメで不器用なタイプ。
 こうした人はなぜ不器用なのだろう?

 ずっと観察してきた結果、
 「意識ですべてを制御しようとし過ぎ」
 ではないかということに気がついた。


 -----------------------


 こうした不器用タイプの人たちを
 見事に指導する人がいる。

 「新インナーゲーム」の著者。

 テニスの壁打ちが
 とても下手な生徒がいた。


 ボールを打つと、
 強すぎて打ち返せなかったり、

 今度は弱すぎて跳ね返ってこなくなり。
 著者は次のように声をかけた。

 「ポン、ポン、ボーン」


 -----------------------


 「新インナーゲーム」の著者は、
 「自分」をセルフ1、セルフ2に分けて
 捉えている。

 これはそのまま意識、無意識に
 置き換えられるように思う。


 上手に壁打ちしたい、
 バックハンドで打ち返したいと意識すると、

 不器用な人は身体の操縦権を
 意識が奪ってしまう。


 -----------------------


 意識は一度に一つのことしか意識できない。
 だから、

 「ラケットはこう動かさなきゃ」

 と思うと、姿勢や足の動きは
 おろそかになり、ぎこちなくなる。


 すると当然ながら、壁打ちも
 バックハンドもうまくいかなくなる。


 -----------------------


 これは人付き合いでも同様。

 あの人とどんな風に話せばよいだろう?
 と意識すると、意識は言動の操縦権を奪う。


 しかし意識は操縦がヘタクソなため、
 言動がぎこちなくなる。

 あれを言わなければ、と意識しすぎて、
 座の空気が変化したことに柔軟に対応できない。


 -----------------------


 不器用さを自覚している人は、
 もっと無意識を信頼し、
 操縦権を委ねてみるとよい。


 意識は論理性が高く、観察力に優れる
 ので、その長所は生かせばよいが、

 ともかく身体・言動の操縦がヘタクソ。

 意識は観察、無意識は操縦、という
 得意分野に特化させるようにした方がよい。


 -----------------------



■これは、昔から私(鮒谷)も
 感じていたことで完全に同意。


 以前から幾たびか(幾たびも)

 「一見よく出来た(完璧に作り込まれた)
  教材とか講演資料」

 に触れると拒否反応が生じる、
 と書いてきました。



■この現象は


 「一見、整っているように見える
  過度に論理に偏ったコンテンツは、

  それ故、かえって身体化しにくそうだと
  身体が本能的に理解し、拒絶する」


 ところから生まれる生体反応だと
 思っていたのですが、

 まさにその言語化しにくい感覚が
 言語化されているように感じました。

 (私の跳躍的(超訳的?)理解かも
  しれませんが)



■あなたも、

 整いすぎたコンテンツで
 かえって学習意欲が削がれた、

 ということはないでしょうか。



■整然と秩序だって組み立てられた
 学習教材は、

 一部の隙もなく、完璧に
 構成されているように見えますが、

 それゆえに過度に思考(意識)を
 働かせることが要求される。



■そのために、

 せっかくの学びが身体と遊離し、
 本来、実践のための学習であるべきが

 「お勉強のためのお勉強
 (身体と切り離され、頭でのみ考える)」

 に、しばしば陥りがちなのです。



■もちろんコンテンツ制作者としては

 「良かれ」

 と思って

 (多分に自己満足も感じつつ)

 緻密で、齟齬のない、
 極めて高い完成度のコンテンツを、

 という想いを込めて
 作っているのだと思いますが、


 「果たしてそれが
  顧客のニーズに合っているのか」

 と問われると、
 案外そうではないことも多いもの。



■こうした現場の実情は
 私(鮒谷)自身が

 「秩序だって、立派なレジュメ付きの
  セミナーコンテンツ」

 ではなく、


 「レジュメなし、
  余談にまみれた放談会音源」

 を発信するようになって
 よく分かるようになりました。



■何もお客さんは立派なプレゼン資料とか、

 あまりにも緻密に描かれた、壮大な
 理論体系を求めているのではありません。


 それよりも

 【私の感情を動かしてもらいたい、
  そのエネルギーで行動につなげたい】

 といったニーズのほうが
 はるかに大きいもの。



■教科書的なコンテンツは

 「正しいかもしれないけれども
  どうも気乗りせず、繰り返し学べない」

 傾向にあり、


 その真逆方向に
 逸脱したコンテンツは、かえって

 「いい加減(!)だけれども
  感情の喚起が生じるので、

  やる気も出るし、
  即座の行動につながる」

 ものだったりするのです。



■個別コンサルのお客さまには、

 本の著者、講演家、セミナー講師、
 コンサルティング、

 といったお仕事にされている方が
 少なくないのですが、


 こうした方にここまでの話をお伝えして

 「完璧主義を排して、
  顧客目線でコンテンツを作り込む」

 ことを提案すると
 最初は半信半疑ながら、


 実際にやってみると、

 「自分がノリノリになって、手ぶらで
  (良い意味で)適当に話をしたほうが、

  お客さまの評価が
  圧倒的に高まることに気づいた。

  盲点だった、
  しかもそちらのほうがラク

  (今までの苦労はなんだったのか)」

 と、これまで何度も言われました。



■自分が客の立場だったら、
 そりゃ、そうなりますよね。


 ほとんどの場合、勉強するのは
 なにか目的あってのことであって、

 知識を詰め込むために
 学んでいるのではありません。



■お勉強したいわけではなく
 実践したいから、

 セミナーに参加したり、
 教材(含む音源)を購入したり、

 されているのが、お客さま。



■その目的を満たそうとするならば
 こうした顧客の、

 「いまだ実現されていない
  潜在欲求」

 にジャストミートさせる必要が
 あるのです。



■長年、セミナーやら放談会やら
 コンテンツ販売に携わってきて、

 そんなことが分かったから
 あえて(あえて、ですよ!)

 【テキトーな放談形式の
  コンテンツ提供】

 を行ってまいりました。



■話は変わりますが、

 最近、音声でのコンテンツ提供が
 ある種、ブーム化しています。


 この音声のみ、
 というのがいいんですよね。

 ながらで聞けるし

 「お勉強している感」

 も、そこまで強くは生まれない。



■それでいて、
 聞き流しているだけでも

 「聞いていないようで
  潜在意識は聞いている」

 ので、しっかり学びは定着するし、
 自問自答も生まれるし、

 さまざまな感情も誘発され、
 それに伴い行動に移すことができる。



■考えてみると、音声コンテンツは
 聴かれる側にとっては

 【論理&感性&感情が
  ちょうど良い具合にインストールされる】

 絶好のメディアなのでしょう。



■いちいち、
 動画を目で追う必要すらなく、

 イヤホン耳に突っ込んで
 垂れ流しているだけでいいから、

 「伝えたいことが論理としてはなく
  ニュアンス(雰囲気)として伝わる」

 のです。


 この緩さが身体知化するのに
 大事なのです。



■とはいえ、論理を
 無視しているわけではなく、

 整合性を保つことに腐心しているのは
 もちろんのこと。


 その上で

 【あえてその論理体系を見せない】

 ところにコンテンツ制作者としての
 能力が問われます。



■以前にも何度か紹介しましたが、
 こうした考えは、

 その昔、駿台予備校の英語科講師で
 あった伊藤和夫先生

 (残念ながら、
  既にお亡くなりになっていますが)

 の影響を受けて
 確立されました。



■伊藤先生がお亡くなりになる
 数週間前に上梓された

 『予備校の英語』(研究社)

 という書籍には、


 英語教育の現場における
 長年の実績、経験に裏打ちされ、

 そこから導き出された、
 英語学習の本質が記されています。



■そこで伝えられていたことはまさに
 私(鮒谷)が行いたいと考えていた


 【徹底した現場主義を貫き、

  大量の実践事例に裏打ちされた
  変化・変容の方法論を、

  求めている方に伝達する】


 ことに通じるものであったので、

 一読、雷に打たれたような衝撃を
 受けました。



■そうした目線でもって、改めて
 伊藤和夫先生の各種テキストを眺めると

 「単なる英語学習のテキスト」

 とは、まるで異なる角度から

 「見えてくる」

 ものがあったのです。



■そんなこんながあり、
 いろいろサイトを調べていく中で

 ついに、


 <二つの頂点
 ─『英文解釈教室』と『ビジュアル英文解釈』
  『予備校の英語』─伊藤和夫という小宇宙

  ─(入不二基義/山口大学助教授・哲学)>

 というサイトの、
 以下の文章に出会い、


 「ああ、私は
  これをやりたかったんだ」

 という心の叫びが聞こえ、
 それがトドメとなりました。


 ※残念ながら、
  現在は上記サイトは閉鎖されていて、
  全文を読むことはできません。

 (幸いなことに、私は個人的に記録に
  留めておりましたので以下にご紹介)



■以下の文章を、

 教育産業に携わる、高い問題意識を
 持つ人が熟読されると、

 きっと何かを感じられるのでは、
 と思います。


 いろいろ心に刺さった箇所はありますが、
 たとえば、ここの部分


 (ここから)
 -------------------------------------


 「個人的にはね、

  今になってみると『解釈教室』は
  好きになれない所があるんだよ。


 『解釈教室』は網羅的で、

 全ての形を拾い尽くして
 体系的に並べてあるのね。


 それはあの本の意義でもあるんだけど、

 今は大切なのは網羅することじゃないと
 思っているよ。


 しっりした基本姿勢だけを
 教えておけばいいのであって、

 体系を教えるより、

 言語という一本の線を辿る時の、
 素直な頭の働きを展開する方が、

 学生のためになるんだっていうふうに
 『ビジュアル』では転換したんだよ。」


 1987年の『ビジュアル英文解釈』
 公刊後、伊藤先生は色々な場面で、

 『英文解釈教室』批判を口にしている。


 しかし、同僚の予備校講師からも、

 その真意はあまり理解されていなかった
 ようである。


 せいぜい、難しい『英文解釈教室』を、

 平易化・簡素化したのが
 『ビジュアル英文解釈』、

 という程度の理解が大半であった。


 ある酒席でのことだが、『英文解釈教室』を
 絶賛する若い講師を前に、

 伊藤先生が苦笑している姿を
 目にしたことがある。


 ほめられて嬉しくない人は
 いないだろうが、同時に

 「君は何にも分かってないな。」

 と言いたげな先生の口元が
 印象的だった。


 『ビジュアル英文解釈』における転換とは、
 つきつめて言えば、次の点にあった。


 1. 「体系」を隠すこと

 2. 「構造」よりも「流れ」を重視すること

 3. 「現場性」の取り込み


 -------------------------------------
 (ここまで)


 あるいは、


 (ここから)
 -------------------------------------


 読者の方は、

 一冊の参考書を学んで行く中で、
 無意識のうちに全体をらせん状にたどり、

 結果的に「建築物全体」を
 体験していればいいのである。


 体系を厳密に美しく
 提示しようとすることは、

 教師の側のナルシシズムに
 陥りがちであるし、


 それは、学生が抱える現実の困難を、

 教師の目から覆い隠してしまうことに
 さえなりかねない。


 したがって、自己主張としての「体系」は、

 教える側がプログラムとして
 隠し持っているだけで十分なのであって、

 読者の方は、体系の順序によってではなく、

 実際に出会う英文にぴったりより沿って
 学ぶべきなのである。


 そのような考えの下に、
 『ビジュアル英文解釈』は書かれている。


 -------------------------------------
 (ここまで)


 あるいは、


 (ここから)
 -------------------------------------


「... 僕が構文ってことを言い出して
 理屈っぽく教え始めると、それが成功した。

 今では私の考えを受け継いでいる人が、

 駿台に限らず予備校界でシェアを
 持っていることも事実だよ。


 ただ、さっきの大学の先生たちとは
 違ったおかしな所が、

 そういう人達にはあるんだよな。」


 これは、端的に言えば、
 同僚あるいは同業界の

 「予備校講師批判」

 である。


 鼎談では、主に三通りのタイプの
 予備校講師が批判されていた。


 1. 抽象的な理屈ばかりを言って、
   学生をケムに巻く者

 2. 学校文法から逸脱した文法用語等を
   詐術として使う者

 3. 英文の一字一句を過度に「意識化」して、
   教授法の「幼稚化」を行なう者


 例えば、英文解釈の授業なのに

 「ことばとは何か」
 「社会とは何か」

 という抽象論に時間を費やして、

 自分は「本質的なこと」を
 教えているのだと悦に入る講師、


 自らの思想を表明しアジテイトし、
 学生を興奮させる講師、

 専門家が使うような術語を多用して
 擬似高級感を漂わせ、

 学生に「催眠術」をかける講師、


 あくまで分かり易さを追求する結果、

 その「分かり易さ」が
 低俗化・幼稚化してしまう講師 ... 。

 などというのがまさにそう。


 -------------------------------------
 (ここまで)



 などなど、一度でも真剣に、
 真面目に、そして深く、

 「教育」

 について学び、考えて、
 さらには伝えてきた人ならば、

 必ずや何かを
 思われるのではないでしょうか。



■つまり、

 私(鮒谷)が今、行っている取り組みは

 「ここ(伊藤和夫先生)に、
  原点がある」

 ということになるのです。



■ですから、

 私(鮒谷)が提供している
 すべてのサービス(特に音源)

 は、以上の考えに則って、

 一つ、また一つと、
 リリースしてきたものとなります。



■特に以下の項。


 ------------------------


 1. 「体系」を隠すこと

 2. 「構造」よりも
   「流れ」を重視すること

 3. 「現場性」の取り込み


 ------------------------


 読者の方は、

   一冊の参考書を学んで行く中で、
 無意識のうちに全体をらせん状にたどり、

 結果的に「建築物全体」を
 体験していればいいのである。


 ------------------------


 自己主張としての「体系」は、

 教える側がプログラムとして
 隠し持っているだけで十分なのであって、

 読者の方は、
   体系の順序によってではなく、

 実際に出会う英文にぴったりより沿って
 学ぶべきなのである。


 そのような考えの下に、
 『ビジュアル英文解釈』は書かれている。


 ------------------------


   教育における

 【過度の体系化に対する
    アンチテーゼ】

 と言えるでしょう。



■カチッとした論理に当てはめて、

 コンテンツに過度の確実性とか
 完全性を求めると、

 学び手の側も正しいことを学びながら
 かえって動けなくなるものです。



■その呪縛から開放するために

 【コンテンツ制作における、
  おおよその方針決めたら、後は緩く】

 というその方向で、


 一見、テキトーなように見える形で
 提供するのが、

 学ぶ人が立ち上がり、
 高速でPDCA回せる最短距離ではないか、

 と確信しています。



■なにより私(鮒谷)自身が、
 一人の学び手として教育を受けるとき、

 それを頭の中に入れると、学校の中では
 賢いと評価されそうに思われる、

 精緻に分類分けされたテキストより、


 多少、緩いところがあっても
 面白い物語で描かれたほうが、

 定着が促されると実感してきました。



■たとえば経営書一つとっても、

 面白く、かつ、
 めちゃくちゃ参考になったのが、

 『ザ・プロフィット』であったり
 『ストーリーとしての経営戦略』といった、

 物語やエッセイ的な形式で
 描かれているものに震えたものでした。



■不肖、私(鮒谷)の音源も
 そうした提供の仕方を意識して、

 物語や余談・エピソード要素をふんだんに
 盛り込むことを心がけてきました。


 もちろん、そこには論理(体系)を
 内在させているのはいうまでもありません。

 「型を踏まえた上での型破り」

 です。



■どこまで実現できているかは
 ともかくとして、

 すべての提供音源について、
 以上のような

 【コンテンツ設計思想(!?)】

 を貫き、お届けしてきました。




 今日も人生とビジネスを楽しみましょう!


 【今日のピークパフォーマンス方程式】   ■学習者に提供するコンテンツは、    体系を体系として渡すのではなく、    「より緩い形」で提供したほうが、    かえって学び手にとって定着率が高まり、    親切になることがある。   ■過度に精緻で、論理的で、体系的な    "漂白された"コンテンツは、    学習者の感情を殺し、動きを止めてしまう    可能性があることに留意するべきだ。   ■とはいえ、もちろん教材提供する側は、    精緻で、論理的で、体系化された    コンテンツを「自分の内に」持っておく、    べきであることもいうまでもない。   ■そうした系を確立した上で、    それを隠して提供できるか否か、    ここでコンテンツ提供者としての矜持や    能力が試されるのではないだろうか。

カテゴリ:



※現在、20万1602名が購読中。